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東條英機が第40代内閣総理大臣に就任。1941年10月18日

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写真: 東條英機が第40代内閣総理大臣に就任。1941年10月18日

写真: 田中康夫(作家)長野県知事選で初当選 2000年10月15日

昭和16年(1941)10月18日、東條英機が、首相・陸相・内相を兼任する内閣が発足した。

東條は陸軍内部にあった統制派と皇道派の抗争に際して、皇道派相沢三郎陸軍中佐に殺害
された陸軍省軍務局長永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導していた。

皇道派には貧しい農村の指導層出身の青年将校達も多く、農村の悲惨な実態等を身近に
知る者が、財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され、天皇親政の下での
国家改造(国家改造のため直接行動も辞さず)を目指した。
よって「陛下の御意」を作り上げ軍の統制を無視、クーデターに走る傾向も持っていた。
それに対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重し、陸軍大臣を通じて政治上の
要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家の建設」を目指す
統制派。この両派の間には対立が生まれていた。

東条は昭和11年(1935)に大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任した。
その任期中に、関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受けて活動を行っている者を多数
検挙、日本軍内の赤化を防止した。また昭和11年(1935)二・二六事件が勃発した際には
関東軍内部での混乱を収束させ皇道派の関係者を検挙した。
それらの功績により同年、陸軍中将に昇進している。

昭和16年(1941)10月18日、第三次近衛文麿内閣総辞職後を、近衛と東條は次期首相に
東久邇宮稔彦王をに推すことで一致した。しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶ事を
懸念する木戸幸一内大臣らの運動で実現せずに、急遽、東條が次期首相となった。これは、
木戸幸一内大臣が独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取付けた事によるもので
「当時の対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また、東條は天皇
の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで、戦争回避にもっとも有効
な首班だ」という、木戸の逆転的発想だった。

東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすよう直接指示される。
東條は、それまでの開戦派的姿勢を和らげ、外相に対米協調派の東郷茂徳を据えた。
対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求にも二つの妥協案(甲案・乙案)を提示
する方策を採った。しかし、日本側の提案はアメリカ側の強硬な姿勢によって崩れ去る。
ハル・ノートとして知られ、太平洋戦争開戦直前の日米交渉での、アメリカ側から日本側
に提示された交渉文書を提示され、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国
の存在さえも認めないというその内容に落胆し、対米開戦を決意するに至った。
日本時間1941年12月8日未明、ハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊
と基地に対して、航空機および潜航艇による攻撃が日本軍によって行われた。



極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、
11月12日に終了した。この裁判では7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
東條は「真珠湾を不法攻撃しアメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受けた。




写真は、
グアム島アデラップ岬「ラッテオブフリーダム」公園内にある日本軍の大砲。

アデラップ岬は、アガニア湾、フィリピン海、遠くは恋人岬まで見渡せる絶景のスポット。
その岬には2010年に建てられた、ラッテストーン型の展望台がある。

グアム島は、太平洋戦争が勃発した真珠湾攻撃の5時間後に、日本軍によって航空攻撃を
開始され、12月10日にはアメリカ軍を放逐、島名を「大宮島」と改名した。その後、
1944年8月にアメリカ軍に奪還されるまでの、2年7か月に渡って日本軍が占領している。
奪還後アメリカ軍は、日本軍が使用していた基地を拡張し戦争終結までの間日本本土への
爆撃拠点として使用した島。

街中や海岸線など、いたるところに旧日本軍の使用した大砲や戦車などが錆ついた状態で
置かれている光景を目にした。

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