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香港返還 1997年7月1日

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写真: 香港返還 1997年7月1日

写真: 金閣寺が同寺の僧侶の放火により全焼 1950年7月1日 写真: 第二次バルカン戦争勃発 1913年6月29日

香港の主権が156年ぶりにイギリスから中華人民共和国に返還され、香港特別行政区政府が成立、董建華が初代行政長官に就任。
旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行、駐香港イギリス軍は撤退。代わりに中国本土(中華人民共和国)から人民解放軍駐香港部隊が駐屯することになった。


【香港変換の背景】
1842年、南京条約(第一次アヘン戦争の講和条約)によって、香港島が清朝からイギリスに割譲され、1860年には北京条約(第二次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約)により、九龍半島の南端が割譲された。
これによってイギリス領となった二つの地域の緩衝地帯として「新界」が注目されると、1898年の展拓香港界址専条によって、この三つの地域は、以後イギリスへの99年間に渡る租借が決まり、その統治下に置かれていた。


【(第一次)アヘン戦争】
清とイギリスとの間で1840年から2年間行われた戦争で、名前の通りアヘンの密輸が原因となった戦争である。後に起きたアロー戦争を第二次アヘン戦争とみなし、第一次アヘン戦争と呼ぶこともある。

当時(1810年〜1820年頃)のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入する一方で、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡など、富裕層向けの物品に限られ大量に輸出可能な製品が存在せずに大幅な輸入超過であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策に迫られ、植民地のインドで栽培したアヘンを、清に密輸出することで輸入超過分を相殺し、均衡を保とうとした。

中国では明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入は禁止されている。
19世紀に入ってからも何度となく禁止令は発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりの効果もなくアヘン吸引の悪弊広まり健康を害する者の増加、風紀も退廃していった。また、アヘンの(密)輸入量も増加し、清国内の銀保有量が激減、銀の高騰を招いていた。

そのため、清朝第八代の皇帝、道光帝は1838年に林則徐を特命大臣に任命し、アヘン密輸の取り締まりのために広東に派遣する。
林則徐は、商人からの贈賄にも応じることなく、アヘン密輸に対する厳しい取り締まりを行い、1839年にはアヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求、「持ち込んだら死刑」と通告し、さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収して夷館も閉鎖する。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

清国とイギリス間のアヘンを巡るトラブルは、やがてイギリス本国の外相パーマストン子爵の主導で対清開戦へと大きく傾きを見せる。
しかし、「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、国内からも反発が強かったが、「清に対する出兵に関する予算案」は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス海軍は「東洋艦隊」を編成して清国への派遣を決定した。

やがて、アヘン戦争が勃発することになる。

1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、第一次アヘン戦争はイギリスの完全勝利により終結した。


【南京条約】
1842年8月29日、南京近くの長江上に停泊したイギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと、清国全権代表で欽差大臣(特命大臣)の職にあった耆英によって締結された。

条約の内容
1. 香港島割譲
2. 賠償金2,100万$を四年分割で支払う
3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港
4. 公行の廃止による貿易完全自由化


【アロー戦争】
1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争。
アヘン戦争後、広東(広州)内外の住民の間で外国人排斥運動が盛んとなり、1842年12月には大規模な広州英国商館焼き打ち事件が起こった。この時期から英国人を対象とした暴動が頻発するようになる。
戦争の理由の一つであった中国人による多くの外国人排斥事件で、特に象徴的な出来事が「アロー号事件」であったため、日本では「アロー戦争」と呼び、アヘン戦争に続いて起きたために第二次アヘン戦争とも呼ばれることがある。


【日本への影響】
清朝の敗戦は清の商人によって、いち早く幕末の日本にも大きな衝撃伝えられた。強国であった清の敗北が西欧の東洋への進出の旗印となる危機感を日本に募らせた。
それまで、異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた幕府は天保13(1842年)、この方針を転換。欧米列強への態度を軟化させ、やがて、ペリー来航、明治維新を経て日本の近代化へとつながる流れにもなった。

19世紀後半、帝国主義の列強は、アフリカやアジアの植民地の拡大を競い合い、中国、朝鮮、日本の東アジア諸国は、ヨーロッパ列強、ロシア、アメリカ合衆国から開国を迫られていく。

これに対し、日本も近代的な軍隊を持ち、列強による侵略からアジアを護る必要に迫られた。







写真は、日本国内でチェーン展開をしている「揚州商人」というラーメン店。
どの店も建物の作りが凝っているので、店に一歩足を踏み入れると、まるで中国に来ている錯覚にも陥る。



初めて香港を訪れたのは、当時スラム街と化していた九龍城砦(クーロンじょうさい)の取り壊しが騒がれていた直後と記憶をしているので1995年頃だったと思う。中国への返還を間近に控えた香港だった。
飛行機を降りて入国審査を行う列に並んでいると、どこからともなく独特の香辛料の匂いを感じる。日本で羽田や成田に到着する外国人は、同じように醤油の匂いを感じるという。

街へ出て目についたのは、マンションなど集合住宅に干された洗濯物。物干し竿は、道路に対して直角に張り出す。
街中に乱立気味に建設される高層ビルは、どんなに高層の建物でも足場は竹で組まれている。そして岩盤が固いため、山の中腹にも高層のマンションが(普通に)そびえ立つ。
何より驚いたのが、当時普及し始めた携帯電話。日本では、まだ所有する人も少なく、街中で使うには、変なためらいを感じていた頃。香港ではほとんどの人が携帯電話を片手に、または通話をしながら歩く姿が自然だった。

繁華街には、貴金属や高級時計の店が溢れている。勞力士(ロレックス)の文字と王冠マークがやたらと目につく。

「(上下のふた文字を縦にくっ付けた字)に(拉OK)」の四文字の看板もいたるところで目についた。
「クレジットカード」を中国語では「信用」に(上下のふた文字を縦にくっ付けた字)を書く三文字なので、これは「クレジットカードでの支払いがOK使ですよ」の意味だと思っていたら、後に「カラオケ店」のことだと知った。
 注:文字の解説をすると(「峠」から山を除いて「上」の下に「ト」と書く字)

また「夜総会」の看板も多かったが、これはナイトクラブであり、裏側はデートクラブ。詳細は省くが、香港では1対1で店の外に出てしまえば、警察はいっさい関知しない。ただし日本人だけで行くには危険が伴う。上海では同じような意味で「床屋」に行ってはいけないと注意を受けた。


当時はまだ、舶来ブランド品の内外価格差(日本は高い)が大きく、香港へはそれらを安く購入する目的を持った日本人観光客も多かった。
しかし本土返還後、それらの観光客は激減したと聞く。


「香港」の動画(スライドショー)をYoutubeにアップしました。
https://www.youtube.com/watch?v=axoSYC_LkrA

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