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常昌寺/先達城(諏訪郡富士見町)

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写真: 常昌寺/先達城(諏訪郡富士見町)

写真: 常昌寺/先達城(諏訪郡富士見町) 写真: 常昌寺/先達城(諏訪郡富士見町)

mixi記事コピペ――2015年05月26日 19:16

15.05.19.
じょうしょうじ/せんだつじょう。
小東城、新五郎屋敷、多田氏居館。
史料の初見は享禄元(1528)年。諏訪侵攻に際し武田信虎は、この地にあった新五郎屋敷を城に取り立てたという。これが先達城だと考察されている。
(新五郎屋敷がどこにあったのかはいまだ特定されていない。まして、新五郎なる人物が不詳である。)

往時、甲斐国と信州諏訪郡の国境は富士見町の御射山神戸の南、堺川と推察されており、ここで合戦があった。
(神戸、境川において諏訪頼満と。堺川なる河川、地名も不詳で、河川であれば立場川を指していると考察されている。)

伝承によれば、甲斐武田氏家臣 多田淡路守常昌の居館だったという。
(事実が不詳であり、時期も不明である。)
1級史料には見当たらない。だが寺名にもなっている。
文献上で、どのような人物であったか分からない。五名臣 多田三八が父か、息子か、と考察される。
常昌は諏訪氏の抑えとして、かなり早い段階で先達城代に任命されたと思われるが、父子が同名を名乗った? ためか、事跡が混合していると思われる。

信虎時代は同盟関係にあり、娘 禰々の結納品? としてこの地は諏訪氏の領地だった。
諏訪攻略後に設けた北信進軍のための“棒道(下)”途上にあるので、兵舎として使用されたとも考えられている。

現在、城跡には常昌寺と先達区公民館が建っている。
遺構は特に認められない。
常昌寺背後に土塁らしき遺構が確認できるが、長篠合戦後に掃い地となり「鳳凰山 常昌寺」が建ったという。明治には学校用地にもなり、城の遺構と断定されていない。
この先は鹿之沢川で、断崖になっている。
寺の東側にある墓地が独立した郭状になっており、主郭であったかとも見える。
(諏訪四国霊場第三番。ほかに常昌寺の情報、歴史が見つからない。)


多田淡路守常昌の墓碑──
墓地の隅にあり、天保年間に長篠戦場跡より移したと伝わる墓碑。
表に「知海常通居士位」、裏に「三州長篠戦合天正三年五月四日夜 陣中右淡地三八郎常政苑」と 刻まれている。



分からないなりに綴ってみた。まあけっきょく分からないのである(v^―゜)

長野日報社→ http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=27590


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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