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大島城(下伊那郡松川町営 台城公園)

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写真: 大島城(下伊那郡松川町営 台城公園)

写真: 大島城(下伊那郡松川町営 台城公園) 写真: 大島城(下伊那郡松川町営 台城公園)

mixi記事コピペ――2015年06月02日 11:50 削除
●秋山虎繁──
源三、信友(甲斐国志)、善右衛門尉、春近・晴近・信近(近世軍記)、虎繁(近年の諱確定調査による)。
官途名・通称、伯耆守。
渾名、武田の猛牛。
父、秋山左衛門尉信任。
室、織田氏女(遠山景任室)。
養子、秋山(金丸)昌詮、秋山(金丸)親久。
秋山氏は甲斐源氏武田氏分流。加賀美遠光嫡男 光朝を祖とする。
加賀美遠光の父は源義清、または源清光。甲斐武田氏祖 武田信義の弟、または叔父。
若くして抜擢された知略武勇に優れた侍大将。武田二十四将。
※恵林寺→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000090726791&owner_id=32815602

大永7(1527)年生まれ。
天文10(1541)年、元服。武田家当主追放事件の年。虎は信虎の偏諱だと唱える学者あり。
天文11(1542)年、諏訪侵攻にて初陣(甲陽軍鑑)。
(このとき駒井高白斎の与力または寄子説。)
天文16(1547)年、信濃国伊那郡福与城攻めにて一番槍。くわえて敵将 藤沢頼親捕縛の大功を成し、50騎持ちの侍大将に取り立てられた。
以後各地を転戦し、高遠城、飯田城、大島城の城代を務めるなど、伊那侵攻による戦功で伊那郡代に任じられる。このころ相備えと合わせ250騎持ちになっている。

永禄10(1567)年、信玄が織田信長と同盟を結ぼうとしたとき、多くの重臣が反対する中でただひとり信長との同盟の利を説き、諸将を同意させた(甲陽軍鑑)。
永禄11(1568)年、織田信長嫡男 信忠と信玄4女 松姫との婚約成立に伴い、名代として岐阜へ赴いている。このとき虎繁は信長に手厚く歓待された(甲陽軍鑑)。

※上村合戦→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095786561&owner_id=32815602

元亀3(1572)年10月、武田信玄は西上作戦を開始。虎繁は山県昌景とともに別働隊を率いて三河へ侵攻。三河諸城を陥落させながら本隊へ合流し、三方ヶ原へと戦況は移っていった。
元亀4(1573)年3月6日、信玄の命で東美濃へ転進、前年武田方に与していた岩村城へ入城する。このとき遠山家の養子として送られていた信長5男 御坊丸(織田勝長)を甲斐へ送っている。
※これより以前に、岩村殿(おつやの方)が人質に甲府へ送った説。

同年4月12日、信玄死去。以後変わらず武田家に仕える。
天正2(1574)年、勝頼美濃攻め。東美濃侵攻において最前線を戦った。
天正3(1575)年5月、長篠設楽原合戦。武田勝頼の大敗に、情勢が反転する。
こののち、織田信忠が大軍を連れて岩村城へ進軍。遠山氏諸城が寝返るまたは落ちるなか、虎繁はおよそ半年にわたり籠城し持ち堪えた。勝頼の救援はなかった。
同年11月、籠城が限界をむかえたため、虎繁は和議・助命を申し入れ、呑まれた。
※着陣した信長より降伏・助命の勧告説。
※投降説。

信長の陣へ謝礼に訪れたところを、供の大島氏、座光寺氏3人とも捕らえられ(約は反故にされた)、長良川で磔に処され、殺害された。享年49。
※岩村殿ふくむ5人説。
※逆さ磔説。

籠城戦を生き残った城兵らも、開城ののちに皆殺しにされた。武田に与した遠山氏も一部処刑されている。


系譜──
1級史料に虎繁実子の記録はない。養子のふたりも死去。
※長盛院→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000090670700&owner_id=32815602

山形藩水野家(忠元系水野家・水野監物家・水野和泉守家)に仕えた秋山氏(山形秋山家)は、同家伝承の「先祖書(宝永6(1704)年著)」および「甲斐国志」には、虎繁の子 民部右衛門(国志では式部右衛門)の孫 秋山平太夫が水野家に仕えたとしている。
※山形藩水野家→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2101170195&owner_id=32815602

天正10(1582)年、秋山信任次男 秋山信藤と、信藤次男 長慶のふたりは、武田勝頼の遺児 千徳丸を武蔵国瓦曽根(現埼玉県越谷市)に匿ったが、まもなく夭折する。長慶は剃髪して照蓮院を開創し、菩提を弔ったという。
信藤は、長男 虎康の長男 昌秀のもとに身を寄せて余生を過ごしたとされる。
※照蓮院→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095528348&owner_id=32815602

秋山昌秀は徳川家康に仕え、下総国小金領(千葉県松戸市)に1000石を与えられた。その昌秀の妹が徳川家康の側室(おつまの方(都摩・津摩)・下山殿・妙真院・長慶院殿天誉寿清大姉)となり、万千代(武田信吉)を生む。
3代家光御代、昌秀の子 正重が大目付を務めている。

※旗本 甲斐秋山氏──
称、秋山阿波守・秋山修理・秋山虎之助。
所領 駿河国・19村・表高4700石・実高4751石。


新府城→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000089794585&owner_id=32815602

岡城→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000094900796&owner_id=32815602

アルバム: 公開

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