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谷中霊園(台東区)阿部家墓所

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写真: 谷中霊園(台東区)阿部家墓所

写真: 谷中霊園(台東区)津山藩松平家合祀墓 写真: 谷中霊園(台東区)阿部家墓所

mixi記事コピペ――2010年12月04日 15:00
入っていいと認識していましたが、施錠されてました。下の写真の左奥が正弘氏。大正天皇が墓参したという碑もあります。
阿部氏のみの敷地でしたが、現在は分譲され一般の方も眠られてます。



●mixiコメントコピペ――2011年01月31日 01:55
阿部正弘──
25歳で老中。
1853年黒船来航。諮問政策。
1854年日米和親条約(12ヶ条)。領事裁判権と最恵国待遇が不平等という、アメリカが一方的に有利な条項があったわけだが、決してアメリカが強引に押し付けたものではなく、日本が譲歩した結果のもの。誤訳も多かったそうだ。
1855年長崎海軍伝習所(4年で閉鎖したが大物続出)。
1856年講武所(築地。のち陸軍所)。初代頭取は男谷精一郎(ダヤ セイイチロウ。直心影流男谷派)。軍艦教授所がのちに設置され、勝海舟や村田蔵六らが教鞭を振るった。
1856年蕃書調所(当初 洋学所。九段下)。→1869年大学南校→1877年東京大学。
1856年伊豆韮山代官、江川英敏(太郎左衛門英龍の子)に反射路構築を急ぐよう指示。

1857年老中堀田正睦(ホッタマサヨシ。佐倉藩主)──神奈川条約(和親)→下田協約→日米修好通商条約──案の提示、交渉。
(アメリカが強引だったのは締結。ロシア、イギリス、フランス、オランダが次に迫っていたから。日本開国の一番手になる必要があった。)
反対勢力を黙らせるため、勅許を得んと自ら上洛するも、失敗。孝明天皇は大の外国嫌い。19世紀、その時すでに京には尊王攘夷論が広まっていた。儒教に由来し、江戸時代通して尊王論、攘夷論は存在していた。
──幕府衰退。阿部が広く意見を募ったことで、政治に口を挟む者が激増。民主主義に通じるものはあるが、問題を解決する能力がないと露呈するものになった。
堀田が条約の勅許に出たせいで、江戸開幕以来政治参加を許さなかった朝廷に発言権を与え、天皇が上位にいることを知らしめた。ふたりとも優れた政治家だっただけに致命的。

55年10月の大地震の復旧事業に支出かさみ、安政の改革はこの年の正弘の死とともに頓挫する。



※おまけ。安政の大地震──
●1854年11月04日、安政東海地震。震源遠州灘、マグニチュード8.4。沼津〜伊勢に被害。房総〜四国に大津波被害。2000〜3000人の死者。
・11月05日。安政南海地震。震源土佐沖、マグニチュード8.4。四国〜近畿に被害。太平洋側大津波被害。前日との峻別つかないが、数千人の死者。
●1855年10月02日安政江戸大地震。震源江戸川下流、マグニチュード6.9。関東全域を直下型襲う。4000人以上の死者。

?1859年コレラ大流行(当時は虎狼刺(ころり))。江戸で4〜5万人が死んだらしい。真相はハテナ。



※おまけのおまけ。忘記。安政の大地震で藤田東湖は亡くなりました。



おまけ?
Ameba「お盆/お墓」 → http://ameblo.jp/emeth-spriggan/entry-10985280009.html
仏道、神道、お中元、墓参など、記事にしました。ご照覧あれ┌(_ _)┐

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