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谷中霊園(台東区)佐藤泰然墓

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写真: 谷中霊園(台東区)佐藤泰然墓

写真: 谷中霊園(台東区)松本良甫(りょうほ)墓 写真: 天王寺五重塔跡(都立谷中霊園)近くより遠景

mixiコメントコピペ――2013年04月28日 19:39
2011年01月18日 23:29記事個別化

●佐藤泰然――
医師。名は信圭(のぶかど)、号は紅園、泰然は通称。父は佐藤藤佐(とうすけ)。現在の神奈川県川崎市生まれ。
順天堂大学の基礎を作った人。
天保元(1830)年、蘭方医を志し足立長雋、高野長英に師事する。
6(1835)年、長崎に留学。
9(1838)年、江戸へ戻る。両国薬研堀に「和田塾」を開く(和田は母の姓)。
14(1843)年、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設。姓も父の佐藤を名乗る。
「順天」とは、中国古書にある「天の道に順」の意。「佐倉順天堂」の治療は当時最高水準であった。
高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しい。安政年間、院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある。いずれも麻酔薬を使わない手術。
嘉永4(1851)年、日本初の「膀胱穿刺」手術に成功。
乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育てた。
順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾であった。
6(1853年)年、功績が認められ、正式に佐倉藩士に取り立てられる。町医から藩医となる。
安政6(1859)年、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居。
文久2(1862)年、佐倉を離れ、横浜移住。
明治5(1872)年、東京下谷茅町(現・台東区池之端)で肺炎のため死去。享年69。

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